民芸の意味
一
私は民芸に就いて語り出そう。工芸の中で如何なるものを民芸と名づけ、
又なぜ民芸を語らねばならぬかを最初に書こう。
造形美の領域の中で、わけても私達が興味を抱いているのは工芸の世界で
ある。あの学園の美学者達から、「不自由芸術」とか「応用美術」とか只一
サゲス
言蔑みの口調で片付けられているその世界である。しかもその工芸の中でも、
私達の心をとりわけ惹くのは民芸である。民衆が用いる日常の用器雑具であ
る。人々から「勝手道具」とか「不断遣い」とか遠慮がちに云われるその品
品である。
かく云えば何か今までの見方に強いて手向かうようにも思われ、又好んで
奇異な説でも立てるようにもとられよう。又近時の社会思想に犯されたから
とも云われよう。結果はそう思われても致し方ないが、私達からすると実は
そんな大がかりな態度から云い始めたことではない。私達には単純にそれ等
のものが美しく見えたのである。吾々は只まっすぐに吾々の眼に従ったとい
うに過ぎない。むづかしく云えば、直観の率直な動きに委せたまでである。
、、
省みると私達はものを見るのによくもうぶであったと思うほどある。否、も
のをぢかに見る以外に、私達には持ち合わせがないのである。何か厳しい主
張でも用意してかかったなら、私達の見方を反抗的と呼んで下さってもよい。
しかしもっと素直に単純に民芸の美に打たれたのである。
だが吾々が見得たものが、今まで長く聞かされていた美の世界と甚だしく
相違している以上、私達の見届けたものを率直に語りたい希いを起こしたの
である。それ故私達の言論は在来の見方への修正であり、又下積にされてい
たものへの新たな弁護である。それは正に一つの価値転倒である。しかし私
達は私達自身を欺くことが出来ない。なぜなら直観には迷いがないからであ
る。そうして「見る」ことは「考える」ことより更に動かない信念を伴うか
らである。
どんな明確な真理でも、それが新しく提出される時には必ず抗議を受ける。
なぜなら習性は急角度にその方向を曲げ難いからである。しかし私達は私達
の為すべきことを為し、後は静かにその推移を待とう。案外時は早く来るか
も知れない。時勢はかかる転倒を受け容れるのに好状態に在るからである。
二
美に関しては言葉はいつも廻り道である。ものを見てもらえばすむことで
ある。見ることより慥かな判断はない。しかし見難い人、見誤る人、見足り
ない人もあろう。それ等の人々に備えるためには、一応の筋書が必要である。
私は今直観を分析してかからねばならない。私は先づ工芸の意味を定義し、
民芸が何故重い位置をその間に占めるかを読者と共に考えよう。
工芸品とは実用品である。さし当りこの簡単な定義で充分である。私達は
この内容から色々なものを導き出すことが出来る。工芸の概念には「用」と
カナメ
いうことが要である。用を離れて工芸はない。それなら物は用を去るにつれ
て工芸の意味を失ってくる。用への無視はやがて工芸への無視である。それ
故こうも云えよう。用に近づくほど、工芸の意義を完うしてくると。用に即
することが工芸の生命であると。
それなら、この内容から次のように意味を進めて行ってもよいであろう。
用に適うものが本当の工芸品であると。言い換えれば用い易いもの、用に堪
えるもの、それが正しい工芸なのである。使いにくいもの、こわれ易いもの、
そういうものは工芸としての務めに悖る。このことは又次のような性質を示
してくる。便利なもの、誠実なもの、丈夫なもの、それが正当な工芸である。
不便なもの、不親切なもの、繊弱なもの、それはよい作品とは云い難い。用
に適わないからである。
それに用のためなら、用をはかどらすものでなければならない。気持ちよ
く使えるもの、使って楽しめるもの、用を潤すそれ等の性質は、用をいや増
し助けてくる。工芸に装飾が起こる所以である。だがこの主客はよく保たれ
ねばならない。用を邪魔するほど着飾ったもの、派手なもの、奢ったもの、
又これと反対に鈍いもの、奇異なもの、何れも用を妨げてくる。装飾にはい
つも遠慮があってよい。工芸の良し悪しは用に従うか否かによって決定され
る。用への忠誠、このことなくして正しい工芸はなく、工芸の正しさはない。
私はもっとこのことを突き進めて考えよう。どこまでも用との結縁が工芸
本来の性質なら、用が最も活々している世界に、工芸も亦最も活々してくる
と云えよう。このことから明らかに二つの事実が予想される。第一はこうで
ある。用と縁故の一番多い生活に工芸は最も活きてくると。裏から云えば、
用と縁遠い生活に入るほど、工芸は生命を失ってくると。それ故こう云って
よい。用の一番多い民衆の生活には一番活々した工芸品が使われていると。
そうして遊んで暮らせる富貴の生活には一番弱々しい工芸品が入っていると。
一方は大勢の者が不断にいつも使わなくてはならない品々である。他方のは
少数の人がたまにより使わない品物である。前者に工芸が栄え、後者に工芸
た衰えるのは必然だと云えないであろうか。用への近づきと用への遠ざかり
とが、工芸の運命を決するからである。
同じこのことから第二のことが安全に期待される。工芸の一番健全な発達
は日常の器物に見られると。そうしてめったに使わないものほど、病気に罹
り易いと。理由は明白ではないか。一方は用に厚く近づき、一方は用との交
わりが淡いからである。一方は働き手で一方は飾り物だからである。工芸品
の身になれば床の間に据えられて怠けて暮らすより、居間や勝手元で忙しく
働く方が活き甲斐があるに違いない。「不断遣い」「台所道具」と人々は遠
慮がちに云うが用を生命とする品物の身には、心外な言葉と聞こえるであろ
う。「勝手道具だから」と誇ってくれる主人をこそ待っているに違いない。
ジョウテ ゲテ
上手の雅器より下手な民具の方に工芸としての強みが与えられるのは自然だ
と云えないであろうか。不思議な摂理である。奢る富貴な生活より虐げられ
た民衆の生活の方が、遥かに健全な品物を使って暮しているとは。そうして
飾り立てた客間よりも、居間や台所の方が遥かによい品物の陳列室であると
は。
三
私は又違う角度から「用」の性質を考えよう。工芸の存在は人間の生活に
役立つためである。わけても大衆の生活が用の一番大きな領域である。それ
なら「用」は「多」と結ばれる時、その役目が一層鮮やかになる。そうして
それが「廉」と結ばれる時、いよいよ本旨に適ってくる。なぜなら何処でも
買え、幾人でも買え、誰でも買えるなら、一番用の機能を働かし得るからで
ある。「ざらにあるもの」「安いもの」と人々は蔑むが、この性質なくして
工芸の使命が果たせるであろうか。又このことなくして、人間の生活が潤う
であろうか。使う人達は安心してよい。多く出来るもの、安く出来るものに
は、必ず工芸の正しい性質が潜んでいるのだと。(安いものが安っぽいもの
になったのは、ごく近代での出来事である)。或はこう云っても差支えない。
多く安く作れないようなものには、どこかに病気があるのだと。正しい工芸
と正しい経済とは一致する。高価なものでなくば何もよい作がないように思
うのは、みじめな錯覚である。もしそうならそれは社会が健全な工芸の発達
を邪魔している場合に過ぎない。簡素な尋常な生活と、健全な誠実な工芸と
は一体である。幸福中の幸福である、ざらにあるものに最もよい工芸品が見
出せるとは。稀にあるものにのみ優れたものが在るというなら、世は暗いで
あろう。若しざらにあるものが悪いなら、それは社会がどこかで工芸の正当
な生い立ちを邪魔しているからである。多と廉とが粗悪と結ばれるなら、そ
れは社会の恥辱であると云ってよい。
用の性質を又こうも説き得よう。用は役目である。役立つとは仕える意で
ある。生活への奉仕が工芸の果たすべき本務である。よき奉仕には従順さが
なければならない。それはどこまでも人間の生活に役立ち、それを助けそれ
を潤すものであってよい。仕える者が奢ったり、高ぶったり、言い張ったり、
ハジ
手向かったり、乱したり、弾いたりしてはならない。そういう性質は用の本
旨に逆らうからである。一言で云えば用器には個性が強くてはいけないので
ある。個性が鮮やかであればあるほど、他の個性を弾くからである。それは
仕える身とはならずして、主人を強いる身となるからである。個性の強い器
物は使いにくい。使いにくいものは用からは遠い。工芸には個性は要らない
のである。幾度も幾年も用が果たせてこそよい。まもなく厭きられるような
ものであっては用途にそぐわない。自からを持たず自からを捨ててこそ全き
奉仕が出来る。若し個性を許すなら、それは静かなもの穏やかなもの、親し
さがあるものでなければならない。この世の工芸品の大部分が無名の工人達
の作であるとは如何に正当なことであろう。ここでは無銘こそ価値である。
最も正しい工芸は無銘の工芸である。なぜなら無銘であってこそ用途と厚く
交わり得るからである。良き作を天才のものとのみ思うのは誤りである。工
芸は必ずしも天才を待たない。否、もっと強めて云えば天才にはよい工芸が
作りにくい。個性が出がちになるからである。平凡と云い棄てられる民衆が、
真に工芸に相応しい作家である。かかる意味で職人の作が一番正当な工芸品
である。
私は又用に潜むこれ等の秘義を、材料や工程の側からも云い得るであろう。
確かな作物には確かな材料が最も肝腎である。なぜなら材料の確かさが用途
を一番よく守護するからである。用に堪え得る力の半は材料から来るからで
ある。しかも材料は天然のものが最も確かである。なぜなら人工的に精選し
て了ったものは、知識のためにいぢめられているからである。天然のものに
は骨があり肉があり、且つ素直さがある。これこそ用途のために欲しい性質
ではないか。工程から云ってもそうである。廻りくどい方法、誰にもむづか
しいやり方、そういうことは工芸では自慢にならない。なぜなら無理がある
から作品の健康そ犯してくる。錯雑な工程は飾り物には必要かも知れぬが、
日常の用器には無駄な労苦に過ぎない。簡単な道條、やり易い手法、手近な
資材、それが一番本條である。よい器物は簡素である。簡素であってこそよ
い。簡素でなくばもともと用途には堪えられない。工芸は大通りを歩くこと
を欲している。誰でも歩めるその大通りが工芸の領地である。平易にまさる
安泰はない。奇異とか異常とかいう道は、一時は栄えるとも生命は短い。工
芸の世界では誰にも出来ないようなものを作ることは名誉とはならない。大
勢が共々に出来るものこそ却ってすばらしい本物である。工芸は凡夫成道の
道である。
私は既に様々な角度から用と工芸との関係に就いて述べた。そうして「用」
を中心に工芸の価値が定まるのを見た。それがどれだけ用と密に交わるかに
よって運命は左右される。それ故私は云おう、工芸が工芸たる純粋の相を保
つ時、始めて工芸としての美が輝くのであると。そうして工芸の純粋の相は
用途との固い結合をおいて他にはない。工芸的なるものは用の性質を離れて
はなく、そうして用を離れては工芸の美しさも亦不可能である。
帰納されたかかる真理は、読者に何故私が民芸を目して工芸の本流とする
かを充分に暗示し得たと思う。工芸の正しい美は用の性質から発する。そう
して最も厚く用に交わる工芸は民芸をおいて他にはない。事実私は未だ嘗て
実用品に優る美しさを示し得た作を他に見たことがない。美しいものが夥し
く民芸に見出せるのは当然である。若し民芸で無いものに美しいものがあれ
ば、それは民芸を美しくさせている法則が、そこに多分に働いている場合の
みである。
四
私は私の言葉を補うために、工芸に於ける民芸の位置に就いて、更に多少
の解説を添えたく思う。
広く工芸とは呼んでいるが、そこには様々な異なる流れが見える。このこ
とが今日までしばしば見逃されて、その間にけじめをつけなかったため、工
芸という概念がいたく曇っている。併し作物の価値問題に触れる時、品種を
分類し、相互の性質を対比し、何れが工芸の本道であるかを省みる必要があ
る。様々な工芸の相を前に見て、私の眼に浮かぶのは四つの類目である。そ
れは互いに出発を異にし目的を異にし発育を異にし結果を異にする。
第一を私は「貴族的工芸」と呼び、
第二を「個人的工芸」と名づけ、
第三を「民衆的工芸」と称え、
第四を「資本的工芸」と云おう。
叙述が抽象に流れるのを恐れて、直ちに実例から語り出そう。ここに一つ
の精巧な蒔絵があったとする。私はそれを第一の類型に入れて「貴族的工芸」
と呼ぼう。なぜなら富貴の人々のために特に製作される作品だからである。
裏から云えば民衆の生活には縁遠い品物である。云わば上等品である。人々
は好んでかかるものを美術品と呼びなしている。技術的に云えば素晴らしい
作が多い。名工でなくば作り難い品物である。若し工芸史が技巧史であった
なら、特筆せらるべきものと云ってよい。何も蒔絵のみではない。乾隆あた
りの王室の五彩の焼物の如き好個の例である。多くは精緻で丹念で絢爛であ
る。それは常に多量な時間と費用とを要する。貴重なものであるという意味
からも、これ等のものに一番感心する人達がこの世には多い。
だが私はもう少し立ち入ってその性質を解剖しよう。それが重んじられて
いる大きな理由は、実に工芸離れがしているという点である。云わば美術の
域に入っているからである。用途などいう下賎な域を遠く去っているからで
ある。そうして並々では出来ぬ驚くべき技がそこに見られるからである。
だが私は借問しよう。それなら工芸としての本質はどこにあるのかと。用
を殆ど無視して作られたそれ等のものを、正当な工芸の目標と云えようかと。
用に立つ工芸が用を離れる方向へと転ずるのは、やがて自己廃棄ではないか。
又はこうも質そう。それは技巧の精細と美との混同ではなかろうかと。私は
もっと進んで焦点に触れてゆこう。かかる奢侈なものの存在それ自身に欠陥
がありはしまいかと。絢爛華麗なものが果たして美の最高なものであろうか
と。又はかかるものを要する富貴の生活それ自身に社会的病根が潜みはしな
いかと。そこには権力の暴威が働いているではないかと。そうしてかかる威
力は歴史上の不自然な一過程に過ぎなくはないかと。かかる世界に適合する
高ぶる作が、真の美しさを産む機縁を有つかと。
私は翻ってその工人達の生活を想いその工程を想いその資材を想う。彼等
にも誇りがあったに違いない。併しあの繊細な複雑な技法に時間と労力とを
奪われた生活は、明るい延び延びしたものであったろうか。あの扉を閉ざし、
人を避け、衣服を脱ぎ、自からの動作を矯め、呼吸をすら抑えて克明に丹念
に仕事をせねばならぬ蒔絵師の生活を、健全な生活と呼べるであろうか。そ
こには何か不自然さが強いられている。そうまでして作る仕事それ自身に既
に病的なものがきざしてはいまいか。
私は嘗て玉で製した船を見たことがある。帆柱から幾条となく糸のように
細い綱が引いてある。それが悉く玉の丸彫である。工人達は山奥の洞窟に入っ
て幾年かを費やして一つの作を仕上げると云う。驚くべき技と人は感歎する
かも知れぬが、私は寧ろ痛々しさを感じ、愚かさを感じ、遂に腹立たしさを
感じる。生計のため作ることを余儀なくされた工人達に対してではない。そ
れを購って喜ぶ人々に対してである。そうしてそれを美術的だと呼ぶ鑑賞家
に対してである。私達はかかるものの存在を許してよいか。私達は毒された
生活が工芸を毒する大きな原因であるのを想わないわけにゆかぬ。
だが摂理は用意深い。それ等の作に真の美しさを許してはいないのである。
若し富貴の作が工芸の帰趣であり絶頂であり主流であるというなら、工芸の
宿命は暗黒である。工芸は権力人の支配に虐げられるからである。遊惰の生
活の犠牲になるからである。正しい作が生まれ出るその機縁が断たれてくる
からである。だが貴族的工芸はその使用者の生活が概ね軟弱なるが如く概ね
軟弱である。簡素とか健全とかいう性質を有つことは許されていない。若し
ジョウテモノ
「上手物」のうち美しいものがあれば、それは却って技法の単純な場合、形
態や紋様の簡素な場合に限られていると云ってよい。同じ蒔絵にしても初期
の作はずっと美しい。技から云えば未だ発達していない時期のものではあろ
うが、単純さが却って美を保障しているのである。「上手物」に美しいもの
が少ないのは、それ自身の性質に病原が深く根ざしているからである。私は
かかるものを工芸の本流と考えることが出来ず、又考えるべきでないと信じ
る。
五
人々はそれ等のものを工芸品と呼ぶことを嫌って「工芸美術」なる名称を
与えた。美術に近づく故に、一段と格が高いと主張するのである。用を目途
とするより、美を目的として出来る作品だからである。美は用から来らず、
用を離れてこそ美は生まれると主張される。かくして美とは何かを最も明ら
かに意識して発生するものに、「個人的工芸」がある。ここでは使う者が誰
であるかを問わない。又品物が用に即しているかどうかをも問わない。只自
分が目して美しいと考えるものを作るのである。詮ずるに自己の表現である。
それ故ここでは使用者ではなく製作者が主位に置かれる。使う者は寧ろ従に
位してその美を味わうのである。「使うこと」より「見ること」への転向が
その特質である。
ここに木米の染附が一個あったとする。これは個人工芸のよき一例である。
作者には並ならぬ美への鑑識があったことを語る。それに非凡の才能がその
作を可能ならしめたことを告げる。そこには躍如として木米なる人間が浮か
ぶ。兎も角凡人ではなし能わぬ仕事である。彼あっての作である。謂わば彼
の強い個性の鮮やかな表現である。それ故どこまでも在銘の作である。何も
木米一人には限らぬ。仁清にせよ、柿右衛門にせよ、同じことが云えよう。
異なるのは只人間の持味の差違だけである。それ等の魅力はその特質性にあ
る。特色ある作品、そのことに生命がかかるのである。独創の有無が作品の
上下を決定する。
個人主義に立脚する現代の美学が、工芸のうちこれ等のものを最上位に置
くことを躊躇しないのは当然である。併しかかる批判は果たして正当であろ
うか。多分の疑いを持つ私は左のように再び詰問を始めよう。果たして用よ
り美へと目的を転ずることが工芸最後の目標となろうかと。用を軽んじて美
を活かそうとする態度が、果たして工芸を美しくするであろうか。用を無視
してかかるなら、何故好んで用の工芸を美の媒介に選ぶのであるか。私はそ
れよりももっと本質的なことを尋ねよう。そもそも工芸は個性の美を要求し
ているであろうか。用を目途として発した工芸にかかる個性的な美が相応し
いであろうか。果たして個性美は美の最後のものであろうか。しかも崇むべ
き性質の美であろうか。私はもっと事実の方面からその牙城に迫ってゆこう。
個人的作品でどんなものが本当に美しかったか。古往今来果たして在銘の作
で無銘の作を凌駕し得たほどの美しい作があったためしがあろうか。恐らく
この最後の質問は致命的な難詰ではあるまいか。
あの木米の染附だとて、明の染附の前に何の眼色があろうか。あの柿右衛
門の赤絵だとて、萬暦や天啓ものの前に出て何の勝ちみがあろうか。読者よ、
ゲテ
仁清や乾山が如何に陶画に巧みであったとても、無銘な下手の石皿より美し
いと言い切ることが出来ようか。一方が歴史に大書され、一方が一語だに得
ていないとは何たる史家の錯誤であろう。批評家が名を読んで作を読まない
証拠である。私は一つの個性が、鮮やかな美しさを有つことを否まない。だ
が問題はかかる個性の美が最高の美であるかどうかである。個性を越えた美
しさは、もっと大きな深い意味を有とう。多くの場合個性の出たものは個性
に滞る。それはしばしば特殊な性癖にさえ終わる。私達は個性に滞る作品を、
真によい作品と呼ぶことは出来ない。それは特質の美であるとも、本質の美
ではない。
私は個性に立つ工芸を工芸の主流と考えることが出来ない。私達はもう個
人主義の古き殻を脱がねばならない。私は優れた個性が必要とならないほど
の高められた時代を考える。これは単なる空想ではない。歴史が示す通り真
の工芸時代は無銘の時代であった。西洋中世紀の如き好個の例である。在銘
の工芸は傍系の工芸である。
六
私は便宜上私が呼んで「資本的工芸」と見做すものを続いて語ろう。現代
の市場に見られる大部分の作品はこの範疇に属する。作る者も購う者も大か
た民衆であるが、私が名づけて「民衆的工芸」と見做すものとは、その基礎
を異にし成長を異にする。この作品の発生は近代であって全く資本主義の産
物である。そうしてそれは科学の発達に伴う機械と結合した。ここでは人間
の精密な知識が働く。そうしてこれ等の作物の特色とする所は製産の多量と
廉価とである。而も交通の発達はその普及を更に拡大している。これ等の特
質は用途を眼目とする工芸の重要な一条件を充たしていると云わねばならな
い。資本主義が現代の経済界を風靡したということは、機械生産が現代の工
芸を風靡したことを意味する。知識に対する人間の探求が絶えない限り、機
械への発明は益々進むであろう。これがために人間が稗益を受けたことは既
に些少でない。労役は省け仕事は簡単になり作物は種類を増しその分布を拡
めた。
併し工芸はかかる趨勢によって正当な発展を遂げつつあるであろうか。私
達はそれを承認することに多くの困難を感じる。そうして幾多の矛盾がそこ
に介在していることを見ないわけにゆかない。発生の基礎をなす資本主義そ
れ自体が非難の的であることは誰も知る通りである。資本に悪があるのでは
ない。それがいつも商業主義と結合するからである。利の前には一切のもの
が犠牲になるからである。而も無遠慮な機械の行使が労働を単調にし苦痛に
していることは繰返し説かれた。機械生産によって吾々は多量と廉価とを得
たと云う。併しそこには一つの欺瞞が潜んでいないと云えるであろうか。な
ぜなら大衆の生活に役立てるためよりも、投資者の利得を眼目に作られてい
るからである。機械そのものが悪なのではない。これを誤った目的のための
手段に取り容れることに悲劇が始まる。それは一つの怜悧な営利主義の結果
に過ぎない。販路の拡張は利得にとって重要な事件である。それ故作るもの
が用への誠実を果たすかどうかを第一には問わない。役立つも役立たざるも、
多く売ればよいのである。機械生産は激甚な競争を伴ってくる。客を引くた
めには作物に刺激がなければならない。それが美に適うと否とは問う所では
ない。俗悪と粗悪とがこれに伴うのは必然である。民衆は多量と廉価とを獲
得したであろうが、代償として質を失い美を失って了ったのである。物が弱
く悪く醜くなってきたのは必然の結果である。嗜好の堕落はかくして益々強
まってくる。而もそればかりではない。富が資本家に集中せらるる結果、公
衆は漸次貧乏に陥り、その廉価なものをすら買い難くなっている。而も機械
の隆盛は人間の手を排斥する。機械の犠牲になりつつある失業者が如何に多
いであろう。
併し近時機械工芸に新たな美を認める主張が台頭しつつある。それは密接
に科学への謳歌と提携する。めざましい科学の進出がある今日、私達は未来
への期待を無下に否定するわけにゆかぬ。併し私達は同時に哲学に於いて知
識の限界が論じられている如く、美に対する機械的機能の限界に就いても承
認する所がなければならない。恐らく今日の最も複雑な機械も、人間の手に
比べて如何に単純なものであるかを一番よく知りぬいているのは機械学者彼
等自身であろう。現今の誤った営利制度の許に、現今の未熟な機械が、既に
よい作を産んでいると主張するのは早計である。それは物に対する直観から
の判断ではない。単に科学への是認からくる理論に過ぎない。多くそれ等の
理論家には美が見えていないのである。理論から或ものを美だと断定してい
るに過ぎない。
私達はもっと問題を根本に溯らす必要がある。手工にしろ機械にしろそれ
は作品を産む手段である。手作りのもの必ずしもよくはない。又機械のもの
必ずしも悪くはない。それは何れであってもよい。正しい作が産めさえすれ
ばそれでよいのである。根本の問題は機械そのものの正否にあるのではない。
社会がそれ等のものを果たして正当に働かしめているか否かにあるのである。
誤った方策の許では手工にしろ機械にしろ正しいものを産むことは出来ない。
私は現在機械が美しいものを産んでいると考える主張を承認することが出来
ない。丁度手工が堕落しているのと変わりはない。若し現在よいものがあれ
ば、残念にも時代に逆らって作られつつあるものか、さもなくば時代離れの
したものだけである。若し機械工芸を正当に発展せしめようとするなら、そ
れは営利的工芸であってはならない。工芸がかかる性質にある限りそこに正
当な生長はない。商業主義が要求して来た機械が、工芸をいや美しくしてい
るとは考えられない。機械の善悪よりも制度の善悪が根本問題である。私達
は改善せられた制度に於いて、機械が如何にその機能を果たすかを考えねば
ならない。正しい社会組織の許に於ける機械は、今日のそれとは別個の方向
へと進むにちがいない。それは再び労働の喜悦を奪うような暴君とはならな
いであろう。そうして機械が商業主義から離脱する時、それは始めて正しい
品物を産み、かくて「民衆的工芸」の発展に参加するであろう。
七
民衆的工芸、吾々はそれを「民芸」と約言している。民衆の日常生活の用
途のために、民衆によって作られる工芸品を云うのである。私達はこの分野
に来て始めて「用」がその完き姿を現してくるのを目撃する。それはもはや
「見るために」「飾られるために」犯されてはいない。又は「個性のために」
「利得のために」傷つけられてはいない。それは用を果たすために製作され
る。簡素な姿、健康なる体、誠実なる質、凡てが用へのよき準備である。そ
れは人々の生活を助けるよき働き手となるようにとて作られるのである。用
に発する工芸は民芸に於いて、用の目的を完くする。民芸を工芸中の工芸と
呼ぶことに何の躊躇があろうか。私達はここに来て始めて工芸の主流に逢う
のである。そうして工芸が工芸の全き立場たる用に帰る時こそ、工芸として
の正しい美しさが輝いてくるのである。私はその自由さに於いて、誠実さに
於いて、自然さに於いて、素朴さに於いて、そうして渋さに於いて、民芸の
右に出づる作物を他に知らない。そうしてそれ等の性質こそは美を形造る最
も重要な素因である。それ等の前には華やかさや細かさや鋭さやそれ等のも
のも影が淡い。そうしてあの奢る個人の作もそれ等の前にはまだ濁りが見え
る。初代の茶人達はこれ等のことをよく見ぬいていたのである。
だが茶道によって夙にこれ等のことが暗示せられていたに拘わらず、後代
の誤った茶人達によって見方が濁らされたためか、民芸の美とその意義とは
長く埋没せられた。一番見馴れた手近な普通の品に過ぎないためでもあろう。
敢えてそれを見直そうとした人はない。そうしていたく因襲的な習俗的な見
方によって只つまらないものとして捨てられて了ったのである。
高遠な真理に携わる学園の人々には、「用」の世界というが如きことが、
如何に俗に下品に見られているであろう。工芸は全く下積みにされて美学の
対象たり得ないでいる。そうして美術に比べ、位置らしい位置すらも与えら
れていないのである。偶にあればそれは最も工芸らしくない工芸、あの「工
芸美術」と呼ばれるものだけである。私は民芸が未だ嘗て美の問題として情
愛と理解とを以て論じられたのを見たことがない。
だが「用」を何故私達は卑下してかかるのであろうか。それは丁度地上の
生活そのものを卑しむ考えに等しい。私達はそういうアカデミックな理想主
義を捨ててよい。そうして正しく地に活きることにまさる生活はこの世にな
いのだということを信じてよい。生活を離れた世界に美を求めるより、生活
に即する世界に美を探らねばならない。用の世界こそ最も真実な美の領域で
ある。否、私達はいつか次の驚くべき命題を素直に受取る時が来るであろう、
用は交わってこそ真の美が現れると。
この世を美しくしようとするならば工芸の文化が来ねばならない。そうし
て工芸の大部分を占める民芸の時代が来ねばならない。あの用に遠い僅かの
部分を占める工芸美術に、ひとり繁栄が来るとも、この世は美しくならない。
工芸への注意は当然民芸への注意でなければならない。それが最も厚く用に
交わっている意味からも、亦それが最も多数の量を占めている意味からも。
美を想う者の巨大な理念であるあの「美の王国」は、民芸の興隆なくしては
成就することが出来ない。私達は、もう一度工芸を本来の性質に戻し、用に
即する工芸となさねばならぬ。そうして工芸の主流をなす民芸の発達を阻止
するあらゆる障害を除いてゆかねばならぬ。民芸の凋落は工芸の凋落であり、
工芸の凋落は美の凋落である。
長い間民芸の作者である無名の職人達は、無学なる故に、秀でた個性無き
故に、社会に高き位を欠くが故に、又普通にいる者なるが故に、歴史から抹
殺せられた。そうして史家は彼等が何を為したかを等閑にしている。併し私
達はかかる惰慢を許すことが出来ようか。私達は彼等を記念せねばならない。
あの天才すら及び難い無数の美しい作を以て、この世の生活を温めてくれた
民衆の大なる功績を。凡庸の故を以て大衆をけなすのは、許すべからざる僭
越である。私達はそれが大衆でなくば決して出来ない仕事であるのをつくづ
く顧みてよい。私をして工芸史家であらしめるならば、即刻に歴史を書き改
めたい。私は題してそれを「無銘工芸史」と名づけよう。無銘の工芸こそ工
芸の主流である。なぜなら無銘の作より美しい作を見たことがないからであ
る。若し在銘の作で真に美しいものがあったら、それは作者が一生の精進を
以て自我を越え、無銘の域に達し得たが故に過ぎない。
民芸は易行道である。自然な材料、無理のない工程、素直な心、簡単な構
造、当り前の人間、それだけでよいのである。私達はこの平凡な条件を傷つ
けない社会を欲する。今は不思議にもこれ等の易行道こそ難行道になってい
るのである。非凡を好む近代人には、平凡なことほど至難なものはないから
である。だがこの趨勢は自然なことではない。私達はもっと常態に立ち戻ら
ねばならない。それより本筋な活き方はないからである。美が生まれる安定
な道、互いにその上を歩くようにしようではないか。
(打ち込み人 K.TANT)
[もと「民芸とは何か」と題す]
【所載:『工芸』 第1号 昭和6年1月】
(出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)
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